70年前の時代遅れ

Apemanさんのはてな別館コメント欄で私は旧日本軍の精神は70年前でも時代遅れだ、と述べた。基本的な事実を無視して語られる南京事件 - Apeman’s diary
 よく知られている(と私は思っている)が、日露戦争の教訓により当時の列強は重火器を中心とした火力重視の戦術に切り替えたのに対して、日本陸軍日露戦争までのドイツ式火力主義から歩兵操典を改定(1909)し、白兵主義に切り替えた。
 
 無論、日本陸軍が白兵主義に切り替えるにあたってそれ相応の理由は存在した。山田朗氏によれば、その理由は大別して3つに分けられる。

 第一は単純に火力主義を貫徹できるだけの砲弾、小銃弾の生産が不可能だったからだ。開戦前から陸軍省は東京・大阪の両砲兵工廠に徹夜の作業を命じ、開戦後は民間の工場も動員したが、それでもまったく生産は追いつかなかった。1904年5月の南山の戦闘では日本軍は2日間で3万発の砲弾を消費したが、それは開戦前の消費見積もりの実に半年分に相当した。小銃弾の欠乏も同じく南山の戦闘で発生し、続く6月の得利寺の戦闘では日本軍はロシア歩兵に対して投石しなければならないありさまだった。

 第二に砲兵運用の誤りにより陸軍内に砲兵に対する不信感が醸成されたためである。日本陸軍は当時榴弾(地面に着弾してから炸裂する砲弾)よりも榴散弾(空中で炸裂し、小弾子が降り注ぐ砲弾)を多用した。比率にして1:6の割合だったが、榴散弾は小さい弾で敵兵を殺傷するという意味で小銃と同じものであり、要塞攻略にはさほど役に立つものではなかった。旅順要塞攻略での効果のない榴散弾による砲撃は結果として歩兵の損害を膨大なものとしてしまった。

 第三にロシア陸軍が白兵戦術を用兵の基本理念としてしばしば白兵戦を挑んできたこと、砲弾によるロシア軍の負傷率がコストの割に低すぎた(約14%)などといった白兵戦主体に切り替える要因がいくつもあったことである。

 だが、後知恵を承知でいくつか言わせてもらえば第一の理由については、まず工業力の強化が重要で、砲弾銃弾の生産量が低いから白兵主義に切り替えるというのは本末転倒である。
 第二の理由については、当時戦場からは榴散弾ではなく榴弾の補給を望む声があったが、陸軍中央は戦場の実態を認識しえず、結果榴散弾重視は終戦まで改められなかった。(アジア太平洋戦争でも似た話は多い)
 第三点では、まず負かした相手の真似をしてどうするという突っ込みが最初に出て来る。費用対効果の問題についても、改良ではなく別手段に全切り替えというのはかなり短絡的であろう。戦場の兵士たちは榴弾を使えばもっと効率良く戦えるという認識があったことを思えばなおさらである。



追記・70年前というのは南京事件前後の日本軍を念頭においていたためです。


軍備拡張の近代史―日本軍の膨張と崩壊 (歴史文化ライブラリー)

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