空襲軍律 その一
1942年4月18日、日本本土に初めての空襲があった。指揮官の名を取ってドゥーリトル空襲と呼ばれる空襲である。その爆撃機のうち一機が撃墜され、一機は日本陸軍の支配地*1に不時着し搭乗員八名が日本軍に捕獲された。
その八名の搭乗員の処遇をめぐって軍上層部*2で議論が生じた。
内海愛子著「日本軍の捕虜政策」194頁以降の記述によれば、天皇は侍従武官を通じて「俘虜は丁寧に取扱いせよ」と田辺盛武参謀次長に伝えたが、軍内部には厳罰を望む声が高かった。それに対して捕獲された搭乗員は国際法で保護を受ける捕虜として扱い、血気に逸って厳罰に処することはできないという意見もあったという。
陸軍大臣であった東條英機は厳罰派の杉山元参謀総長らと協議の結果、処罰のための規則をつくるよう命じている。
だが、空襲のあった後にそれを処罰する法律を作るのは事後法になる。そのため、法令ではなく「軍律」でいくことになったという。「軍律」とは規則というより命令の性格が強く、「軍隊指揮者により、軍の指揮・統率上の必要に応じて任意に制定される」ものだからというのがその理由である。
いささか納得のいかない理由づけであったので、内海氏がこの部分を記載する上で参考にした北博昭著「軍律法廷―戦時下の知られざる「裁判」 (朝日選書)」*3を購入した。
同著53頁からの記述によると参謀本部は最初から見せしめのため厳罰処分にする腹でいた。だが、処罰となると軍政事項にかかわるため、参謀本部の独断は許されない。参謀本部が陸軍省東條大臣と協議したのもそのためである。
当初東條大臣は厳罰に反対であった。アメリカに拘留されている在留邦人に対する報復をおそれたためという。だが、杉山参謀総長との直接交渉で東條大臣は処罰に同意し、そのための規則をつくるよう下命した。
八名のドーリットル空襲隊員をふくめ、広く、今後予想される捕獲搭乗員を対象とした規則である。これまでこうした規則はなかった。このままでは、ドーリットル空襲隊員のような捕獲搭乗員も捕虜としてあつかわざるをえなくなる。捕虜は国際法の保護を受ける。
中略
したがって、捕獲搭乗員を処罰しようとする場合、かれらに捕虜の身分を与えてはならないことになる。捕虜としないで処罰するには、根拠となる新たな規則が必要だった。名分も求められる。陸軍大臣の下命はこのような背景をもっていたのである。
P54〜P55