JSP その二

 南方軍将兵が降伏軍人としての立場に立たされたのは、もともとは南方軍総司令部が東南アジア連合軍との交渉において捕虜ではなく「降伏軍隊」としての名誉と待遇を要求したことによる。東南アジア連合軍は「降伏軍人」という地位を認めたが、そのため日本軍は国際法上の捕虜としての権利を放棄したことになった。

 捕虜と降伏軍人は、連合地上軍参謀長スコット少将が隷下部隊に宛てた一九四五年八月二八日付の命令「降伏日本軍人および敵国民との関係に関する件」第六項によると、前者では将校は隔離収容され、英軍が捕虜に認められた高い給養定量で生存のための責任を負うなど、すべての点でジュネーブ条約に従って取扱われるのに対し、後者は従来どおり将校と部隊の指揮下におかれ、指揮官が規律と行動、生存維持について責任を負うという点で異なる。このため、英軍はハーグ陸戦規則やジュネーブ捕虜条約が規定する待遇を日本軍人に与えなかった。
 「日英交流史3 軍事 日本軍の国際法認識と捕虜の取扱い」 P292

 降伏軍人として取扱われることになった日本軍人たちは劣悪な環境におかれ、労働を強制された。
 給養は1日に英軍の標準的なKレーションのほぼ半分の1600〜1700キロカロリー程度で重労働従事者には英軍司令官が特に認めた場合に、一般定量の50%増配すると定められた。
 労働も危険な作業や不潔なものが多かった。弾薬の海中投棄、採石、樹木伐採、下水掃除、糞尿処理などである。また、シンガポールの軍港では、独立闘争中のインドネシア軍との戦闘に使用する武器弾薬の積み卸しという、国際法に明白に違反する作業も命じられた。*1

 危険な作業に従事しているために多数の死傷者が出た。南方軍総司令部、新嘉坡作業隊司令部がまとめた死因の調査表の中には感電死、爆死等とならんで、英軍宿舎を警備中ゲリラの襲撃を受け「戦死」という死因も存在する。

 終戦から一九四七年一〇月一〇日までの死者は八九七一人、このうち不慮死は一二四三人とされる。作業中の事故による死傷者は、四七年九月までに死者三七三人、負傷者は延べ二万八四人にのぼった。ビルマでは一九四六年一一月までの死者一六二四人のうち、五二%が労務に起因すると言われる。労務に関連したこの死者の多さは異常である。
同書 P294

 シベリア抑留問題で賃金の未払いに関してApemanさんも取り上げたことがあったが、南方軍抑留者に関しても賃金の問題は発生していた。

 これらの労働に対する賃金は、一九四七年六月まで一切支払われなかった。英軍は当初から「降伏軍人」は「捕虜」ではないとして、労賃支払いを行わないことを通告していた。(中略)日本側の再三の要求により、労賃の支払いが実現したのは日本軍人の送還終了間際で、しかも日本政府に支払わせる(つまり帰国後に各人が日本政府から受領する)こととされた。
同書 P293

 「日本軍の国際法認識と捕虜の取扱い」の執筆者、喜多義人氏はこのような事態を招いた原因を次のように述べている。

 「降伏軍人」の苦難は、南方軍総司令部が「捕虜」という名称を避けるため、「降伏軍人」という地位を何の疑問も抱かずに受け入れた結果と言えるだろう。東南アジア連合軍との交渉時に国際法に精通していれば、捕虜としての権利を主張できたのである。しかし、英軍側にも、日本軍人を「捕虜」ではなく「降伏軍人」として取扱うことに利益があった。その理由は、前傾命令「降伏日本軍人および敵国民との関係に関する件」が示しているように、「降伏軍人のような大人数は、捕虜としてより降伏軍人として取扱うほうがわれわれの利益となり、さらに・・・・便利かつ安全である」(第七項)という点にあった。つまり、大量の日本軍人に捕虜の待遇を与えることをさけるとともに、日本軍の指揮系統を存続させ、その管理を日本軍自身に委ねることにより、管理に伴う負担を軽減することを意図していたと考えられる。
同書 P295

 
 前のエントリで引用した服部卓四郎氏の「その後における実情が、国際法上の俘虜として取扱われるに至つたことは述べるまでもない。」という言葉がいかに現実と乖離していたかは喜多氏のこの見解からも明らかだろう。

*1:ここの部分は参考文献として本田忠尚「マレー捕虜記」が挙げられている