返答
遅くなりましたが、6月24日付のエントリに頂きましたコメントの返答です。
satoさん、コメントを頂いておきながら放置した形になってしまったことをまずはお詫びいたします。
「冤罪でも弁護をするな」と解釈しているわけではなく、現在の光市事件にからんでの世論を見たとき結果として、そういう方向に進んでしまう危険性を自覚して欲しいという意図でコメントを書きました。皮肉っぽい言い方にはなりましたが、彼ら*1の主張はそれぐらいの覚悟がなければ出来ないことであるということは判って欲しいのです。
また私自身は刑事裁判で弁護を受けるにあたって冤罪かどうかというのは前提にならないと考えています。
前のエントリでも書きましたが
いかなる人間であれ裁判では弁護される権利を持ち、その権利は最大限保障されるべきであると。
というのはアメリカ人弁護人たちの考えの推定であると同時に、私自身の考えでもあったわけです。
バルミーロさん
知識人に関する興味深い記述の紹介ありがとうございました。
私のブログをご覧になっていただいたのであればお分かりかと思いますが、私は日中戦争から太平洋戦争に至るまでの戦争犯罪と、それに関する戦犯裁判に関心を持つ者です。
大日本帝国と旧日本軍には様々な問題点がありましたが*2、そのうちの大きな問題の一つが法の恣意的な運用にあったと考えています。
5.15事件と2.26事件における裁判のやり方や以前から何度も取り上げた軍律会議の問題点などもそうですが、法を歪めることの問題点は逆に裁かれるべき者が裁かれないといった部分にも表れてきます。戦争中軍の法務官として軍法会議にたずさわった花園一郎氏は以下のような言葉を書いています。
法務官は職業軍人閥に押さえ込まれていたから、生きていくために職業軍人の走狗となって軍の国民支配の片棒を担いだのも分らないわけではないが、却って最も有効な軍閥の協力者になったことは後世に指弾されるべき重大責任がある。法務官が上下一致団結し、生命をかけて軍の非違を監察摘発に努力していたなら、軍の凶暴な思い上がりを完全に抑制しえたと考えられるからである。
「軍法会議」新人物往来社*3
張作霖爆殺、張鼓峰事件、ノモンハン事件などを起こした軍人たちがきっちりと裁かれていたのならば、あそこまで愚かな戦争を起こさずに済んだのではないかと考えると、法の適用を一時的な感情で歪めることの危険性はいくら指摘してもし過ぎることはないはずです。