警察の風紀対策
1進駐軍特殊慰安施設の準備指令
 戦争が終結し、多くの連合国将兵が日本に進駐することになったとき、もっとも大きな問題となったのは、いかにして善良な婦女子を守るか、ということであった。
 政府は清純な婦女子をこの危険から守るための具体策として進駐軍専用の特殊慰安施設を設けることを決定し、八月一八日「警保局長通達」(無電)をもって全国都道府県に対し”進駐軍特殊慰安施設整備について用意されたし”と打電した。敗戦日本を象徴するかのごとく屈辱的処置であったが、治安維持のためにやむを得ないことであった。政府はこの慰安施設設置のため一億円を拠出し、特殊慰安施設協会(RAA)を設けて具体的に活動を始めた。
 本県においてはRAA傘下の組織はなく、警察部保安課が全機能をあげてこの問題に取り組んだ。しかし設置に与えられた時間は僅かで、その上、建物を焼かれ、肝心の従業員が四散していたため、この慰安施設所設置は容易ならぬ仕事であった。県下でも横須賀方面は戦災から免れていたため、比較的順調に設置がすすめられた。急遽集めた女は約四〇〇名、これが元海軍工廠工員宿舎ほか数カ所に分けられ、占領軍の上陸を待った。
 占領のため上陸する兵士たちは、いずれも激しい戦闘のなかを生き抜いてきた若者であり、なお戦場における凶暴性と性への飢餓感とをあわせて持っていた。その上かれらは、つい数日前まで<鬼畜>と呼んだ敵国の兵士である。こうした<敵兵>を相手するのは、いかに醜業に従事する身とは言え、日本人として堪えがたい屈辱であったにちがいない。説得する立場に立たされた警察もまた、事態の急迫性と説得行為の矛盾とに困惑した。当時、横須賀署長であった山本圀士氏(現、警察史編さん委員会参与)はこのことについて次の如く述べている。
「八月一七日、私は次席の松尾久一さん (のち小田原署長)と安浦の慰安所に行き彼女らの前に立ちました。”昨日まではアメリカと闘えと言っていた私が、いま皆さんの前に立ってこんなこと言うの全くたまらない気持ちです。戦争に負けたいま、ここに上陸してくる米兵の気持ちを皆さんの力でやわらげていただきたいのです。このことが敗戦後の日本の平和に寄与するものと考えていただき、そこに生甲斐を見出してしてもらいたいのです”私は話しているうちに胸がつまり、いくたびか言葉が切れました。」
 このような困難な立場のなかにありながも警察は、あらゆる努力をつくして人員・施設・物などの整備をすすめていった。
神奈川県警察史 下巻P346-347

政府通達が8月18日で説得が17日?