「英霊」たちの犠牲

 id:D_Amonさんの二つのエントリー「英霊たちの多大な犠牲」感情論による正当化と感情論の正当化を読んで。
 以前から、「英霊」に感謝せよとか、あるいは旧日本軍の戦争犯罪に言及すると「英霊」たちを侮辱するなとか言い出す論者には強い違和感というか、はっきり言えば不快感を持っていた。

 遺族がその死に何らかの意味を見出したいと思う心情は理解できなくもない。*1しかし、現在保守論壇やネット上で語られるこの手の言論はどの程度意図しているのか知らないが、旧日本軍の上層部を免罪する方向にしか向かっていないと考える。

 「英霊」たちの献身により現在の日本の繁栄*2が存在しているのならば、彼らを死地に向かわせた指揮官たちは間違っていなかったことになる。逆に彼らが無駄死ならば無駄死させた指揮官の責任は追及されるべきだろう。そして私は後者の立場を取る。

 以前読んだ民俗学者小松和彦氏の著作で、この「英霊」について私が考えるときに必ず思い出す一文がある。その文意は憶えていてもどの本だったかも失念していたのだが、id:t-hirosakaさんの所で引用されていたので、孫引きさせてもらいます。「『英霊』という美名を与えられて靖国神社に祀られている死者たちのなかにも、祟ることができないで嘆き呻いている怨霊もきっといるだろう」
 私は彼らを英霊としてではなく、怨霊として捉えたい。そして少しでも、その嘆き呻きを聞き取っていきたい。

*1:ただ、その心情は敗戦後、日本の社会や行政が遺族に対して冷遇したことにより増幅されている部分もあると考える。一ノ瀬俊也「銃後の社会史」参考

*2:戦前にくらべれば