日本社会は「文明の裁き」を行えるか

 私が戦犯裁判について興味を持ったきっかけが法廷の星条旗を読んだためなのだが、この本での以下の文章

 横浜裁判は、「勝者の裁き」であって「文明の裁き」ではなかったといういいかたがされることがある。たしかに、先にみたように、軍事委員会(裁判所)は、合衆国憲法英米法の証拠法則は占領地における軍事委員会の裁判には適用されないと判断した。その点では、この裁判は「文明」を拒否した規程によっておこなわれた。わが国の国民からするとBC級戦犯裁判に対する不公平感が湧き出る理由がある。
 しかし私たちは、同時にこの裁判のアメリカ人弁護人が、きわめて鋭く、日本人弁護士以上に、横浜法廷の論理の「非文明」性を指摘し、執拗といえるほどねばり強く再三にわたって警鐘を乱打していたこともみなければならない。この裁判がもっていた両面をみるべきである。
 私たちが、横浜裁判が「文明の裁き」ではなく「勝者の裁き」であったというだけにとどまっていると、アメリカ人弁護人が身をもって示した「文明の裁き」という視点を見失ってしまうことになるだろう。
P105

に端的に示されているアメリカ人弁護士たちの活動については大きな敬意を抱いている。

 もし、今の日本で4ヶ月前までは敵国人だった者を弁護しようとしたのならば、その弁護士たちがどのような扱いを受けるかといえば、こんな扱いになるのだろう。

 当時のアメリカの世論については調べていないのだが*1、実際こんな反応はあったと思う。そういった世論に押されて弁護人たちが手を抜いたり、弁護を拒否していれば横浜裁判における死刑判決はもっと増えていただろう。

 60年以上前に行われた戦犯裁判に劣るような「裁き」を望むのは私には出来ない。

*1:語学力の関係でちょっと調べるのは難しい