期待可能性

 ビデオに撮っておいたNNNドキュメント'08「兵士たちが記録した 南京大虐殺」を見た後、言及しているブログを幾つか巡っていた。
 その中でid:Arisanさんの二つのエントリ「NNNドキュメント'08「兵士たちが記録した 南京大虐殺」」と「戦争における自由と倫理」を読んで南京事件とは直接関係はないかもしれないが、戦犯裁判について似た問題意識を60年以上も昔に取り上げていた法学者のことを思い出した。

Arisanさんは虐殺に関わった人たちの証言を聞きながら自身の身に引き寄せて考え、次のように述べられている。

兵士として召集され、虐殺行為を命じられた場合、それを拒めるという断言はぼくには出来ない。

明白な虐殺と、戦闘のなかで敵兵を撃ったり、大都市に爆弾を投下したりといった行動がどう違うのか、よく分からないが、ここではそれは考えない。

むしろ気になるのは、たとえばこの番組で語られていたような捕虜の虐殺という行為が、兵士自身にとって、命令による強制なのか、自分の決断による行動なのか、ということである。


「軍隊に入ったら、あるいは戦場に立ったら、命令に背くことなど不可能だ」という言い分もあるが、それに背くことは、原理的には可能である。

NNNドキュメント'08「兵士たちが記録した 南京大虐殺」

「原理的には可能」とは、どういう意味か?

戦争に行って上官の命令に背くことは、軍法会議、場合によっては処刑さえ意味しうるだろう。そうでなくても、そう仮定しよう。

また、戦場で目の前の敵兵を撃たないことは、ただちに自らの死を意味するだろう。

このとき、どんな第三者も、ある人に対して、「自分の命を犠牲にしても、不当な命令には従うな」ないしは「敵を殺すな」と強いることは出来ないだろう。

つまり、「生きるか死ぬか」という条件の中で、「正義や良心のために死を選べ」と、他人には言えない。

だが、このことは、次のことと矛盾しない。

それはつまり、人は誰でも、自分の命を賭してでも、自分の意志を貫くことをする自由がある、ということである。

戦争における自由と倫理

旧日本軍は上官の命令に対する服従を絶対的といってもいいほど重視した。上官の命令に従った結果の不正行為はこれを罰しない例が実際にあった*1ほどである。
 だが敗戦後、横浜裁判の裁判規程は「被告人の上司または政府の命令による行為は、抗弁とはならない」として上官の命令に従っただけだとしても責任は免れないものとした。
 横浜裁判の弁護人の一人であった佐伯千仭氏は「上官命令の抗弁」を認めない戦犯裁判において「期待可能性の理論」の適用を示唆した。「期待可能性の理論」とは状況的に自由な行動が不可能な場合、違法な行為でも責任は問えないというものである。

期待可能性の理論とその限界
 東海軍・岡田ケース*2の弁護人をつとめた佐伯千仭弁護士(元京都大学教授)は、BC級戦犯横浜裁判がおこなわれていた昭和二一年一〇月七日付の論文で、上官命令の抗弁を許さないとの規程は「多少とも軍隊生活の経験を持つひとびとは、これによって少なからざる衝撃を受けたように思われる。けだし、わが国の軍隊においては従来絶対服従が最大の信条とせられ、上官の命令は部下に対して絶対的拘束力をもち、部下はその命令の正当なりや否やを自ら判断する権限を有せず、ただただそれに従順に服従するように義務付けられてきたからである」と書いている(『刑事裁判と人権』法律文化社、一九五七年、二〇二頁)。
 佐伯は、上官の命令の違法であることを知りつつも、命令に従わなければ抗命罪が適用されかねないし、従えば従ったで故意の違法行為をおこなうことになるという進退両難の場面に立たされた部下がどうすべきか、について、部下が、軍法による処罰を免れるために心ならずも命令に従うことは人間性の弱さからみて無理もないことで、それを処罰するのはあまりにも過酷であり、その行為を違法と認めつつ、責任を問わないことがありえてもよいが、その理論として期待可能性の理論が妥当であるとしている。
 しかし、佐伯は続けて、「今日戦争裁判の対象とせられているような捕虜及び非戦闘員に対するじつに想像外の非人道的残虐行為に局限して考えることになると、われわれの期待可能性の理論は、さらに今一段具体化される必要があるように思われる」。
「伝えられるごとき残虐行為は、それを命令した上官についてはもちろんのこと、命令服従の関係に拘束されて行為した部下についてもまた看過しえないところがある」。
「期待可能性または期待不可能性の限界を画するものは普遍的な人間性であり、人道である。期待可能性の理論の立場からも、今日問題となっているような余りにも明瞭な非人道的虐待にあっては、たとえ従来のわが国の軍隊のごとき絶対服従の世界においてでも、部下はこれを拒否すべきだったといわねばならぬ場合があったように思うのである。それは、けだしその理論そのものが、元来、人間性(の弱さ)の承認に基づくものであるからであり、軍隊内の秩序罰の脅威は未だ人道や人間性を蹂躙する行為についての兵士の人間としての責任を解除するものではないからである。人の世界には、生命を奪われてもなしてはならぬことがあるやはりあるのである」(前掲書、二〇九〜二一O頁)。
 期待可能性の理論を主張する論者が、戦犯裁判におけるこの論の安易な適用を戒めていることは重要であろう。
 興味深いことは、上官命令の抗弁を認めないという裁判規程にもかかわらず、佐伯の戒めとは逆に、中部事件では、搭乗員の処刑を執行した末端兵士二〇名が無罪とされ、東海軍・岡田ケースでは、処刑執行者一三名は、いずれも重労働一〇年を言い渡されながら、全員が未服役期間の免除を受けたことである。軍事委員会が「人間の弱さ」に理解を示したということだろうか。
法廷の星条旗―BC級戦犯横浜裁判の記録 P242〜P243 適宜改行を挿入

 私は戦犯裁判には不当な部分も多かったと考えているが*3、だからといってこのような重要な問題提起を無視することは出来ないとも考える。

*1:甘粕事件、2.26事件

*2:大岡昇平「ながい旅」で取り上げられたケース

*3:雑感 - bat99の日記