原爆正当化論

 東浩紀氏の著作どころか、ポストモダン関連の書籍は読んだことがないし、ポストモダンそのものにも興味がないので今まで言及していなかったが、どうしても言いたかったことがあるので。

例えば、どっかの国で、「原爆なんかホントは落ちてない」「落ちたけど、すげー人が死んだってのは日本人のでっちあげ」という話が出てきた、としよう。



日本人として、あるいは個人として、そういうことを言う人に対しては、控えめにいって、かなり不愉快な気持になる。



また、それに対して「絶対の真実などないから、原爆否定論にも耳を傾けよう」という人がいたら、理屈ではわかるにせよ、不愉快な気持にはなってしまう。それが重要な論点で、どうしても言う必要があるのなら分かるけど、さしたる必要もないなら持ち出してほしくはない。



「俺は、ちゃんと原爆の現場見て来たんだぜ。広島の原爆ドーム見たら実感あったけど、長崎原爆資料館は、あんまり実感なかったね。ひょっとしたら長崎の原爆は落ちて無かったって転向するかも。それが俺の「真実」」と書いていたら。



俺は殺意が湧く。



南京虐殺否定論について、安易に議論の例に持ち出されることを、不愉快に感じる人がいる。

その不愉快さがどれほどかは、わからない。わからないが、例えば、上記の例で、少しでも察することはできるのではないか
聞く人の気持ちを考えよう - 東浩紀の文章を批評する日記

motidukisigeruさんはたとえ話としてあげているが、私が歴史認識ひいては歴史修正主義について関心を持ったきっかけが上記の話に近い。

1995年にアメリカのスミソニアン博物館で原爆を投下したエノラ・ゲイの展示を中心とした原爆展が退役軍人協会を中心とした反発によって骨抜きにされ、当時の館長が辞任するといった事態になった。
その議論を知った時、原爆によって戦争が終結し、結果として多くの人間が助かったというのがアメリカ側の歴史認識であるというが、私には受け入れがたい内容であった。
親族や知人に広島・長崎出身の人がいたわけではないが*1、原爆投下を正当化する議論にはかなり強い不快感をもった。
私個人としては母親が空襲体験者であることも、そういった不快感を感じる原因の一つではあろう。だが、やはり日本という枠組みの中で同じ枠組みにいる人たちの苦痛をそういった形で否定されることは我慢ならないことだった。

後に南京事件否定論者の言動をインターネット上で目にするようになって、同種の不快感を持ったことが歴史修正主義に対して反対する一因となっている。
もともとのきっかけがアメリカの歴史認識に対する違和感であったのだが、こういった言動を野放しにしていたらアメリカに対する異議申し立てもできなくなってしまうのではないかと思ったのが、日本の戦争犯罪について調べてみようと考えた理由の一つだ。

*1:会社に胎内被爆をして被爆者手帳を持った人がいるというのをその人が退職する直前に知ったことはあったが