砂中の掩蔽壕

id:blackseptemberさんが三浦半島の戦跡をリポート*1 *2されておられるが、そちらのコメント欄でApemanさんとblackseptemberさんが取り上げられた壕を掘る手間についてやり取りをしているのを読んで思い出したのが次のインタビュー。

−瀬谷部隊は、何名位兵がいましたか?

瀬谷 僕の所は、250名です、中隊長の部下は。その他に馬が、15,6頭です。

− 穴を掘る専門の工兵隊というのは、瀬谷部隊の他にもきていたのですか?

瀬谷 他は、丹那トンネルをやった人達が技術指導をしていたらしいけど、それはうまくいかなかったらしいです。

− 主として専門にやっていたのは、瀬谷部隊ですか?

瀬谷 そうですね。掩蔽壕というか、今のお話だと、こわれてしまうかもしれませんけれども、砂山をななめに掘りまして、何人位か覚えていませんけれど、今でいうシェルターですね、30人位ずつ、せいぜい2個小隊位しか入れませんでした。

中略

−築城の工程は、どういう形で作り上げるようになったか、お話下さい。測量から始めるのですか?

瀬谷 初めは山をオープンに切りまして、上からどんどん切っていく。それから掩蔽壕、シェルターを作って、それから砂をかぶせる。ところが、砂というのはちょっと湿りますと初めは45度位で掘っても、さっと崩れるのです。2,3回賽の河原みたいに失敗しまして、どうしてもやれば又、ふたをしてしまう訳ですから、そんな事をやっているとまずいので、仕方がないから横から坑道、山の方からトンネルを掘りました。今なら、いろいろな工法があるでしょうけど、当時は砂だから、杉の葉を入れて落ちないように掘っていきました。それで、出来上がった訳ですけれど、それでも岩盤なら問題ないです。四方向につっかえ棒はいらないけれど、つっかえ棒をやりながら、そして砂が一遍さらさらと、落ちると穴があきますから、そうするとちょっとした事でドーンと落ちてきます。一粒の砂も落とせない訳です。それをやりながらも、うまく出来ました。何日かかるかと聞かれても、砂の粒子によるので、頭の中では「15日で1つ掘ろうとか、1月、2月で掘ろう」とおもっているのだけれども、やはり、湿り具合とかで・・・。

終戦までにいくつ、掘りましたか?

瀬谷 2つです。平島のつきあたりに・・・。

− その中には、兵器や装備は、ありましたか?

瀬谷 それはやはり、中から夜中出ていってやれるように、食料とか機関銃を持ち込みます。私は作る方だけですから。


中略


− 穴を掘る支柱になる木はどこから持ってきたのですか?

瀬谷 たいした量ではありませんでした。鉄道ではなくトラックでもってくる位で間に合う程度でした。鈴ヶ谷の方から持ってきました。生材ではなく、乾燥したしっかりしたものを、炭坑からでも持ってきたのでしょうか。材料は良かったですよ。

− セメントはあったのですか?

瀬谷 セメントは、全然使いません。セメントは、津久井峠の築城には使いました。


茅ヶ崎市史 現代2 茅ヶ崎アメリカ軍」
第53軍関係者の証言
P122〜P125

砂山を掘って掩蔽壕を作るというのは素人考えでも相当に大変だろうと思うのだが。しかも、手作業でセメントも使わずに30人も入れる壕を作ったというのだから。

だが、実際コロネット作戦*3が発動したとしたら、その掩蔽壕がどの程度役に立ったかというと悲観的にならざるおえない。