タイミングが良いのか悪いのか

実は先週の土曜日に神保町に行った時に古書店で「南京1945年 日僑集中営」山中徳雄著という本を見つけていた。*1敗戦時、南京に在住していた方の手記で河村市長のことを思い出して購入した。

敵地に囲まれてとり残された居留民の心の動揺はかくしきれず、錯雑する不安感や、やがて日本軍の武装解除の日が迫ると、市中には邦人虐殺の風説さえながれた。
 しかし、蒋介石総統が「仇を仇でかえすな」と言ったあの「以徳報怨」の布告と、それを守った中国人の温情が日本人の生命を救ったのであるが、ときには街を歩いている日本人が突然なぐられたり、石を投げつけられたりすることもあった。
はじめに P6

著者の山中氏は昭和18年に「大陸新報」という新聞社の南京支店勤務のために赴任したということで南京事件から6年が過ぎていたためか本文中では言及がなかった。しかし、あとがきにあたる「おわりに」では以下のように述べている。

 南京といえば「大虐殺」事件はさけて通ることはできない問題であるが、お恥ずかしい話しながら当時は全くそのことについて知らなかった。それは当時「勝った、勝った」の大本営発表しか聞かされなかった国民の大多数がそうであったわけで、報道班員として従軍したK氏の話を聞いてみても「南京陥落を郊外の揚水鎮で待機、日本軍の入城とともに南京に入り、松井司令官の入城式にも随行しました」が、あれほどの事件は知らなかった、ということであった。
 本多勝一氏の『中国の旅』の前書きに寄せられている森恭三氏の「いま戦争責任を追及する意義」を読んでみても
「海外報道班員としてラバウルを中心にブーゲンビル、テニアン、トラック、パラオニューギニア、アンボン、セレベス、シンガポールなど移動したのと、上海で『朝日』の記者として海外放送を傍受して本社に世界情勢を報告していたにすぎないから、私自身、日本軍の残虐行為を一度も実見したことはない」と書いておられる部分がある。
 従軍記者といい、報道班員といっても全てを見るわけではないし、全てを見せてくれるものでもないから、知らなかったといっても決して不自然ではない。
 このことは昭和二十一年五月、東京裁判によってはじめて世界に公表されて、全世界に大きな衝撃を与えた問題である。国内でも今なお論争を呼んでいるが、虐殺についての事実はもはや動かせない。概して「まぼろし派」は戦争責任についての曖昧派、軍備増強肯定派らに多いようである。
おわりに P167-168 強調引用者

少なくとも敗戦当時南京にいた人でもこういう見解を持っていたのだ。

*1:出版は1988年、出版社は編集工房ノア