南京1945年-日僑集中営-

昨日紹介した「南京1945年」だが、Amazonで検索しても見つからないので、もう少し詳しく引用してみる。
副題の日僑集中営とは「日僑」は華僑と同じような使われ方で在留日本人というほどの意味で、不安や危険をなくすために一か所に集まって集団生活を行った記録である。

 在華日本人が一番恐れていたことは、戦争に負けたら敵兵が侵入してきて自分たちが掠奪や暴行をうけるに違いないという恐怖や不安であった。少なくとも従来の戦争というものはそういうものりであったし、日本の軍隊も現に中国各地でそうしてきたのである。
 しかし、私たちは敗戦後すぐに全中国にラジオを通じて放送された、
「われわれに加えられた残虐と凌辱は筆舌につくし難いものがあったけれど、敵は日本の軍閥であり敵国の無辜の人民に汚辱を加えてはならない。」
という、在華日本人に報復的な行為をしてはならないと諭した蒋介石総統のあの有名な「以徳報怨」の演説によって救われたのである。
 これは幾多の芽にまる残虐を重ねてきた日本人にとって、痛烈な反省を促す言葉であり、中国人の襟度というか、度量というか、大きな懐の広さに頭が下がる思いであった。在留邦人のSさんが
「日本軍の武装解除の日がきまると市中に邦人虐殺の風評もながれて、生命の危険に脅えました。すると武装解除の前日に市中の辻々に蒋総統名で軍令布告文が貼りだされたのです。その文面は--日本人を殺した者は死刑に処す--この布告文をみて感極まり、おもわず布告文に合掌しました。」
と、帰国後の思い出のなかで述懐している。当時の日本人は皆んな同じような気持ちであった。
敗戦時の南京市在留民 P33-34

ただこの後山中氏は続けて武力を保持していた日本軍の降伏処理は中国側にとっても難しい問題であったことを指摘している。

 営内で聞いた最も感動深い訓話は十二月十二日、検疫所前広場で行われた国民党南京特別市執行委員、金嘉斐氏の訓話であった。一万村民の肺腑をえぐるものがあり、ちょうどその日は、恰も昭和十二年の南京陥落の日であった。

「今日は民国二十六年(昭和十二年)南京陥落の日である。私は始めて諸君と相見えるが、実は一昨年から南京に潜行して、地下工作をやっていた。あの頃は中国および同盟国の空軍が、連日のごとく南京を空襲して、怯えていた諸君らと同じように苦しい生活であったことを覚えている。だが、振りかえって今日の諸君のこの環境みるとき、諸君は少なくとも、その時の怯えたような、しかも不安定な生活より余程ましな生活をしている。
 現在の諸君の生活は、欧州における敗戦国民がうけている悲惨な生活とは、比べものにならないほど安定した生活をしている。だが、諸君は何故に国あって国に帰れないのか、家あって家に帰れないのか。
 諸君の日本の国内では、この冬を迎えて食うに食なく、住むに家なく、また着るに衣服なき百万の人が街を徘徊していると言う・・・」
金氏の訓話はその原因となった日本の中国侵略の野望を痛烈に批判し、
「今日は南京陥落の歴史的な日であるが、諸君はこのことをよく反省し、正しい日本の再建に努力することを望む。」
と、訓話を閉じたが、これを聞いて村民らは深く感動、認識を新たにしたといえると思う。この訓話を境として、今ある自分の姿をはっきりみたのである。軍国主義や侵略による「我が姿」を見て何を感じたか。敗戦後も昔ながらそのまま驕りたかぶってはいなかったか。今こそ現実を直視して、虚飾の夢をかなぐり捨てなければならないと思った。
集中営村の生活 P85-87

右派の人から見れば「洗脳」されたと言われそうな文章だが、山中氏は昭和21年3月30日に帰国している。捕虜と異なり認罪教育を受けたわけでもない人が短期間の集団生活について40年を過ぎてから書いた文章だということは指摘しておく。