JSP その一

(Japanese Surrender Persons) あるいは(Japanese Surrendered Personnel)の略号。日本語で表記する場合は「非武装軍人」、「降伏日本軍人」となる。

 敗戦後、日本軍人が捕虜になることを拒否する可能性があるので、外務大臣陸軍省は「捕虜」(POW)としてではなく「非武装軍人」(JSP)として扱うことでこの問題を切り抜けようとした。*1
 当時の軍上層部はこれを将兵に対する温情の表れで、実際には国際法上における捕虜として取り扱われたとしている。

[詔書渙発以後は俘虜と認めず]
 一切の武力行使を停止せしめられる陸海軍は、やがて武装を解除せられ、外地軍将兵は敵軍の俘虜となるべき運命にあつた。俘虜となることを最大の恥辱と信じている陸海軍将兵に対し、大本営は格別の考慮を払つた。
 即ち大本営陸軍部は、前記一切の武力行使停止の命令の中に、「詔書渙発以後敵軍の勢力下に入りたる帝国陸軍軍人軍属を俘虜として認めず速やかに隷下末端に至る迄軽挙を戒め皇国将来の興隆を念じ陰忍自重すべき旨を徹底せしむべし」との一項を特に加え、海軍部においても同様趣旨のことを特命した。尤もこれは日本側限りの問題であつて、その後における実情が、国際法上の俘虜として取扱われるに至つたことは述べるまでもない。
 服部卓四郎著 「大東亜戦争全史」P955  昭和40年出版 原書房
 強調は引用者 

 しかし、服部卓四郎氏の言とは裏腹に、このJSPという曖昧な規定は多くの日本軍の将兵たちに大きな苦難をもたらした。シベリア抑留はその代表的な例だが、それ以外にもこの規定により抑留され強制労働を強いられた日本軍人たちがいた。

 「日英交流史1600‐2000〈3〉軍事」の「第16章 日本軍の国際法認識と捕虜の取扱い-喜多義人」によると南方軍六三万三千人は英軍を主体とする東南アジア連合軍に降伏したが、彼らも「降伏日本軍人」として国際法上の捕虜ではないとされた。

 結果として

英軍はソ連を除く連合国が日本軍人の送還を終了した一九四六年七月以降も戦後復興と食糧増産の名目で東南アジア各地に一〇万五九六〇人もの日本軍人を抑留し、種々の労働を課した。最後の復員船がシンガポールを出港したのは、一九四七年一〇月末であった。
P292

といった事態を招いた。 

*1:「日本軍の捕虜政策」P591