3月10日
私の両親は二人とも東京生まれの戦中派だ。父親は62年前の3月10日は疎開していて、空襲には遇わなかった。しかし、母親は住んでいた貸家を焼かれた。二月の空襲ですでに実家は焼かれていたので、一月余りの間に二回も焼け出されたことになる。
防空壕に逃げ込もうとしたが、すでに避難していた人たちに拒否されて入ることができなかったため、祖父祖母、あと姉弟二人の計五人*1で炎の中を逃げることとなった。
当時の体験談を聞くと
- 焼夷弾はまるで花火のようで綺麗だった。
- 炎を避けるために川に入ったりもしたが、川で多くの死体を見かけた。
- 祖父のかぶっていた防空頭巾に火が付き、地面を転げまわってなんとか鎮火させた。炎を背負った仏像があるが、まさにあんな風にみえた。*2
- 幼かった弟は祖母に背負われていたが、逃げている間、ほとんど反応をしめさず、*3祖母は死んだと思った。逃げ延びてみたら生きていたが、今でも腕にその時の火傷が残っている。
- 黒こげの死体は人とはとても思えなかった。そういった死体を踏んで歩いた。また、黒こげの死体を持ち上げた途端に、頭がポロリとはずれるのを見た。
- 近所に住んでいた少し年上の女の子は、焼夷弾の破片を顔面に受けて即死したと後で聞いた。
母の家族はなんとか全員生き延びたが、実際逃げている間は死ぬなと思ったとも話していた。戦争だけは絶対に嫌だと常々話しているのはこういった経験をすれば無理もない。私が反戦的な考えを持つ理由の一つがこういった話を身内から聞かされたためでもある。